第3話 男臭い職場、熊谷組で社会人としての生き方を学べました

プロフィール

【野球バカ日本一 パンチ佐藤】

パンチ佐藤 PUNCH SATOH
1964年12月3日、神奈川県川崎市。本名、佐藤和弘。川崎市立川崎市立西中原中学校、武相高等学校を経て、亜細亜大学経済学部卒業。
同大学野球部で東都大学リーグ通算86試合出場、274打数82安打、打率2割9分9厘、5本塁打、42打点をあげ、ベストナインに3回選ばれる。1987年に熊谷組入社、1988年に都市対抗野球大会で首位打者、1989年に同大会でサイクルヒットを記録、2年連続社会人ベストナインにも選ばれる。1990年にドラフ1位でオリックス・ブルーウェーブに入団。プロ野球実働5年で149試合出場、71安打、打率2割7分4厘、3本塁打、26打点。1994年の引退後はタレントに転身、テレビ、ラジオ、雑誌などで幅広く活躍している。現在、函館市「全国朝市どんぶり侍」、青森県南部町「鍋将軍」、岩手県北上市「しらゆり大使」、茨城県笠間市「笠間サポーターズ」、川崎市「川崎市民文化大使」、「田清魚店」イメージキャラクターキャラクター、埼玉県警埼草加署「犯罪抑止隊長」などを務めている。
オフィシャルブログ「パンチ佐藤の一日一膳」 https://ameblo.jp/punch-sato/

82年の歴史を持つ日本プロ野球。
さまざまな名プレイヤー活躍してきたが、記録よりも記憶に残っている選手も数多くいる。
パンチ佐藤こと、佐藤和弘もその一人だ。選手生活晩年にはあのイチローとともに、登録名も「パンチ」として90年代前半、パンチパーマの男気あふれるキャラクターにユニークな言動で人気を呼んだ。
いまはタレントとして活躍する、日本一の野球バカの生きざまに迫る!

男日本一
それで進路が決まったんですね。同期の阿波野さんは近鉄、大洋、巨人からドラフト1位指名を受けましたが、プロ野球からの話はなかったんですか?
パンチ佐藤
とてもプロで通用するとは思えませんでしたからね。古川慎一さんという1年先輩の方が4位指名を受けて、ロッテに入ったんですが、1年目から外野のレギュラーになった。それで、古川さんの試合を見に行って、バッティングはどうにかなりそうだけれど、守備と走塁はプロでは通用しないと思っていました。ですから、プロ野球への関心もなくて、監督に話があったかどうかも聞かなかったんです。とにかく、熊谷組への入社が決まって、貧乏脱出の夢が叶ったと嬉し涙を流していましたからね(笑)。
男日本一
熊谷組では建築本部事務部、営業本部事務部、技術研究所事務部で働いていましたね。
パンチ佐藤
午前中、2時間の勤務でしたけれどね。
建築現場に行く機会がそれほどない部署ではなかったんですが、仕事をしていて、やっぱり、建築現場で働いている人たちの息吹を感じていました。たとえば、熊谷組の都市対抗野球での応援は独特で……スタンドで出初め式で鳶の方のように梯子に乗って若手社員が応援するんですよ。
もちろん、現場で社員たちが鳶の仕事をすることはありません。でも、彼らは現場で鳶の方と気持ちとしてはいっしょになっていたんだと思います。でないと、あんな熱い応援はできない。自分も鳶職員が働いているのをみたことがありますが、その職人技は見ていて惚れ惚れするところがあるんですよ。
とにかく、熊谷組の社員はみんな熱いんです。職場は男臭い雰囲気にあふれている。もちろん、女性社員もたくさんいるんですけどね(笑)。
そういう職場だったので、野球をやめてからも一生、働きたいと考えていました。

熊谷組の3年間は、金銭感覚とか自分の生き方をしっかりしたものにしてくれたと思っています。
とくに、本社開発事業部の部長だった田村鎮雄さんには目をかけていただいて、社会人として大切なことをいろいろ教えてくれました。
銀座に接待にも連れて行ってもらって、普通なら会えない一流会社の偉い方々とも同席させてもらって……一流のビジネスマンと話をすることができて、本当に勉強になりましたよ。
「『このマンションは熊谷組さんに お願いします』では二流の営業マン。
『この物件は佐藤さんに任せた!』と言われるのが一流なんだ」と田村部長には言われていました。
いまでもこのことは肝に銘じていて、タレントとしても、そういう存在であろうと心がけています。
「熊谷組はひとつの家族なんだから、結婚知る覚悟がないのなら、女子社員に手を出すな」とも。
田村部長は家族ではなかったけれど、たまたま親戚だったんですけれどね(笑)。
ドラフト指名されたときも「お前は将来、熊谷組の営業マンとして第一線で活躍できる人間だ。
収入が不安定なプロ野球になんて行くな。 熊谷組に残れ」と唯一、慰留してくれたんです。

男日本一
熊谷組では野球でも大活躍しましたね。
パンチ佐藤
1年目は社会人野球日本選手権大会準優勝に貢献、2年目には都市対抗野球で史上2人目のサイクルヒットを記録、2年連続で社会人ベストナインに選ばれました。
実は⒉年目、プロ6球団から話があったんです。なかでも某在京球団は下位指名してくれることになっていた。
ところが、その年は某球団のクジ運がよくて、ドラフト外でという話になってしまったんですよ。
それで、熊谷組の監督が怒ってしまって……その年のプロ入りはなくなってしまいました。
それほどの自信もなかったし、プロには縁がないのかなあと思っていました。
男日本一
社会人3年目も大活躍しましたね。
パンチ佐藤
悔しい気持ちもありましたからね。
4打数2安打、3安打でも、なぜ全打席ヒットを打てなかったのかという思いで試合に挑み、練習に励んでいました。
当時、社会人野球には新日本製鐵堺のや野茂英雄、松下電器の潮崎哲也、NTT中国の佐々岡真司とか、すごいピッチャーがたくさんいましたから、普通のピッチャーからヒットを打っても、あいつらから打てるのかという気持ちになっていたんです。
全体練習が終わってから、ランニングや素振りをしていましたが、それまで以上に体調管理にも気を配るようになりました。
男日本一
パンチさんがオリックスからドラフト1位指名を受けた1989年のドラフトは空前の大豊作。
近鉄が野茂英雄、西武が潮崎哲也、ロッテが小宮山悟、大洋が佐々木主浩、ヤクルトが西村龍次、広島が佐々岡真二、阪神が葛西稔を1位指名。ヤクルトの古田敦也、近鉄の石井浩郎、広島の前田智徳、阪神の新庄剛志もこの年のドラフトでした。
パンチ佐藤
前の年のソウルオリンピックで銀メダルを獲った錚々たるメンバーですけれど、ボクも1989年のアジア野球選手権の日本代表には選ばれたんです。野茂や潮崎、与田、古田、石井とかは、ドラフトの話をしていたんですが、自分には関係ないなあなんて思っていたんですけれど……。
男日本一
その年のドラフトは野茂さんが史上最多の8球団から1位指名。仰木彬監督の近鉄が交渉権を獲得して、オリックスが外れ1位でパンチさんを指名しました。
パンチ佐藤
まさか1位指名を受けるなんて思っていなかったから、テレビ中継を家で観ていたんです。それで、タクシーで急いで熊谷組野球部の寮へ向かった。「(ドラフト1位は)神様がボクにくれた夢の片道切符ですよ」と言いましたが、せっかく1位に指名されたんだから、行けるところまで行ってやれと思っていたんですよ。神様がボクに赤い絨緞を敷いてくれたんだなあと(笑)

(第4話につづく)

パンチの名言:「どんなことでも『パンチに任せる!』と言われる存在になりたい!!」

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